「糸」を重音テトとピアノで。過去の演奏と、今の歌声をつないだ一幕
中島みゆきさんの「糸」を、重音テトさんの歌声とピアノだけでカバーしました。
「糸」という曲から感じるのは、人と人との出逢いや、巡り合わせ、そして目には見えないつながりです。
それぞれ違う場所で生きてきたものが、いつか出逢い、一つにつながっていく。
今回のカバーでは、そんな世界を柔らかく、優しく描きたいと考えました。
そして振り返ってみると、この作品は歌詞だけではなく、制作そのものにも少し不思議な「つながり」が生まれた一曲になっています。
今回使ったピアノは、二音一幕を始めてから一から作ったものではありません。
以前、かなり苦労しながら作ったピアノです。
そこへ今の耳で必要だと思った調整を加え、新しく重音テトさんの歌声を重ねました。
昔の制作と、今の制作。
その二つが一つの作品の中で出逢った「糸」の制作を、今回は振り返ってみます。
「糸」を、もう一度作りたかった
二音一幕を始める以前から、ピアノを使った作品は数多く制作してきました。
合唱用のピアノ伴奏、弾き語りのための伴奏、そしてピアノソロ。
制作形態は違いますが、その頃に作ったピアノデータは今も数多く残っています。
「糸」も、その一つでした。
そして私にとって、この曲には少し特別なところがあります。
初めて着手した、上級のピアノ譜だったからです。
今では楽譜を見ながらピアノを入力することにもかなり慣れましたが、当時はそうではありません。
特に上級譜となれば音数も多く、入力するだけでも大変です。
「糸」のピアノには、それだけ時間をかけた記憶が残っていました。
だから二音一幕で「糸」を作るなら、あのピアノをもう一度使いたい。
そんな気持ちがありました。
古いからといって、全部作り直す必要はない
とはいえ、昔作ったデータです。
現在とは制作方法も、音に対する考え方も少しずつ違います。
そこで、まずは残っていたピアノを改めて聴いてみました。
すると、
今聴いても、良い。
少なくとも、ピアノの音色そのものを一から作り直したいと思うような違和感はありませんでした。
ピアノEQも、かなり以前から使っていた設定が残っています。
低中域を軽く整理し、輪郭と明るさを少し補う比較的シンプルな音作りです。
現在なら別の設定を作る可能性もあります。
しかし、
「昔の設定だから」という理由だけで変更する必要はない。
実際に聴いて良いと思えるなら、それを残すことも一つの選択だと考えました。
ただし、Velocityは作り直した
一方、そのまま残さなかったものもあります。
ピアノのVelocityです。
以前より作品を作る中で、Velocityによって演奏の表情が大きく変わることを意識するようになっていました。
そこで「糸」でも、ピアノの強弱を改めて調整しています。
今回の基準は、
- mp:72
- mf:80
- f:88
としました。
テンポは72。
ゆったりとした流れの中で、ただ一定の強さでピアノを鳴らすのではなく、曲の強弱に合わせて演奏にも変化をつけています。
この頃はまだ、現在行っているような右手と左手それぞれのVelocityまで細かく分ける方法には進んでいません。
それでも、以前のピアノをそのまま再利用するのではなく、
今の耳で改善できると思ったところには、きちんと手を入れる。
それが今回の作り直し方でした。
なぜ「糸」を重音テトさんに歌ってもらったのか
「糸」を誰に歌ってもらうか。
そこで選んだのが、重音テトさんでした。
この曲を、単純な恋愛の歌としてだけではなく、
出逢い、巡り合わせ、人と人との縁
を描いた曲として捉えていたからです。
重音テトさんという存在を振り返ると、その成り立ちにも多くの「出逢い」があります。
インターネット上から生まれ、多くの人が関わり、創作が重なり、やがて数え切れないほどの作品で歌う存在になっていった。
一人だけで完結したのではなく、人と人とのつながりの中で育ってきた歌声。
そんなテトさんだからこそ、「糸」を歌ってもらうことに意味があるように感じました。
誰かが作った歌声と、その歌声を使って作品を作る人。
そこからまた別の誰かへ音楽が届いていく。
「糸」という曲にあるつながりを考えたとき、テトさんの歩んできた背景とも、どこか重なるものがあるように思います。
今回のテトさんは「柔らかく、優しく」
今回のボーカルスタイルは、
- Joyful:15%
- Power:15%
- Mellow:70%
- Low:30%
- ブレスパラメーター:+0.03
としています。
中心に置いたのは、Mellow 70%。
そこへLowを30%加え、明るく前へ出る歌声というより、少し落ち着いた方向へ寄せました。
一方、JoyfulとPowerも15%ずつ残しています。
柔らかくするからといって、歌声からすべての力を抜いてしまうのではなく、曲が広がるところではきちんと歌える余地を残す。
今回目指したのは、
柔らかく、優しく。けれど、ただ弱いだけではないテトさん
でした。
今回、音素は一つも調整していない
これまでの二音一幕作品では、発音をかなり細かく調整することがあります。
たとえば「たしかなこと」では、原曲の歌い方へ近づけるために音素の長さや配置を細かく変更しました。
ところが今回の「糸」では、
音素調整を行っていません。
調整方法を知らなかったわけでも、時間を省いたわけでもありません。
実際に歌ってもらったものを聴いて、発音を細かく作り直す必要を感じなかったからです。
これは制作を続けるうえで、意外と大切なことだと思っています。
できるようになると、つい使いたくなる。
音素を動かせるなら動かしたくなる。
ピッチを描けるなら描きたくなる。
EQにも使えるバンドがあれば、全部設定したくなる。
でも、調整できることと、調整する必要があることは別です。
自然に歌えているなら、その自然さを残す。
今回の「糸」では、その判断をしています。
代わりに大切にしたのは、語尾の消え方
音素そのものには大きく手を入れませんでしたが、歌唱表現で特に意識した部分があります。
語尾です。
「糸」のような曲では、言葉を強く切ってしまうと、今回目指した柔らかな世界から少し離れてしまいます。
そこで、伸ばした声が最後まで同じ強さで残るのではなく、
すっと自然に消えていくような歌い方
を意識しました。
声が終わった瞬間に世界まで途切れるのではなく、そのあとに少しだけ余韻が残る。
ただし、リバーブを大量に使って残響そのものを長く引っ張る方向にはしていません。
あくまで歌そのものが自然に消えていき、その後ろに空間が少し残る。
そんな終わり方を目指しています。
ピアノを変えるのではなく、テトさんをピアノへ合わせる
今回のミックスには、制作時期の違いが少し表れています。
ピアノは、以前作った音を土台として使用。
そこへ新しく重音テトさんを加えています。
そのため、今回のボーカルEQは、
すでにあるピアノへテトさんをどう馴染ませるか
という方向で調整しました。
低中域を少し整理しながら、Mellowを中心に作った柔らかさを崩さない程度に明瞭感を整えています。
最終的なフェーダーは、
ピアノ:0dB
テト:-3.5dB
です。
歌声をピアノより大きく前へ押し出すのではなく、ピアノと一緒に一つの演奏として聞こえる位置を探しました。
二音一幕では「歌+伴奏」というより、
その歌い手自身がピアノの前で弾き語っているような一幕
をイメージしています。
そのため、声だけが極端に前へ出るよりも、二つが自然に同じ空間へ収まることを大切にしています。
リバーブも、響かせすぎない
リバーブについても、以前から使用していた設定を土台にしています。
空間サイズは5.5m、残響時間は1.2秒。
そしてセンド量は、
ピアノ:-20dB
歌声:-18dB
と、どちらも控えめです。
今回の「糸」は、広大なホールの中で声とピアノを響かせるような作品ではありません。
柔らかな空間は作りながらも、ピアノの輪郭や歌詞が遠くへ行きすぎないようにしています。
特に歌声では、丁寧に作った語尾の消え方よりもリバーブの残響が目立ってしまわないことも重要でした。
「優しい音」にするために、何でも柔らかくぼかすのではない。
輪郭を残したまま、優しくする。
そんな空間になっています。
最後に音圧で押し潰さない
最終段ではリミッターを使用しています。
設定はGain +6dB、Ceiling -1dBを基準としていますが、ここでも大切なのは設定値そのものではありません。
ピアノで作った強弱と、テトさんの歌唱表現を、最後の音量調整で必要以上に押し潰さないことです。
完成音源をYoulean Loudness Meterで測定すると、
Integrated:-18.1 LUFS
Loudness Range:10.7 LU
PLR:15.7 LU
True Peak Max:-2.4 dBTP
となりました。

特にLoudness Range 10.7 LUという数値からも、曲の中にかなり大きな強弱が残っていることが分かります。
さらにPLRは15.7 LU。
平均的な音量に対して、瞬間的なピークもしっかり残っています。
つまり今回の「糸」は、
静かなところと大きなところの差がある。
そのうえで、一音一音の瞬間的な強さも残っている。
という仕上がりになりました。
柔らかく、優しく。
でも、ずっと同じ大きさで静かに歌うわけではありません。
曲が広がるところでは音も広がり、最後には再び優しい余韻へ戻っていく。
Velocityで付けたピアノの表情も含め、その動きを最終音源まで残せたと思っています。
昔の自分が作ったピアノを、全部消さない
ここまで制作を続けてきた今なら、「糸」のピアノを一から完全に作り直すこともできます。
そして、もし現在持っている技術を最初からすべて使って作り直せば、純粋な音の完成度だけなら、もっと良いものができるのかもしれません。
それでも今回は、そうしませんでした。
このピアノは、私が初めて着手した上級譜面です。
当時かなり苦労しながら作ったものでもあります。
今聴いて良いと思えるものまで、
「昔作ったから」
という理由だけで消してしまいたくはありませんでした。
だから、残せるところは残す。
Velocityのように、今ならもっと良くできると思ったところは作り直す。
そこへ現在の重音テトさんの歌声を重ねる。
結果として今回の「糸」は、昔の制作と現在の制作が一つの作品の中に混ざったものになりました。
過去と現在をつないだ「糸」
最初から、こんな意味を持たせようと考えていたわけではありません。
「糸」という曲に感じたのは、人と人との出逢いや巡り合わせ。
だから、その成り立ちにも多くの人とのつながりを持つ重音テトさんに歌ってもらいました。
そして制作を振り返ってみると、ピアノにも別のつながりが残っていました。
昔の自分が苦労して作ったピアノ。
今の自分が調整し直したVelocity。
そして、そこへ新しく加わった重音テトさんの歌声。
古いものを全部残したわけでもありません。
新しいものへ全部置き換えたわけでもありません。
今聴いて良いと思えるものを残し、今だからできることを重ねる。
そうして出来上がった今回の「糸」は、新旧の制作が混ざりながらも、一つの作品として良い仕上がりになったと思っています。
過去に頑張って作ったものが、時間を経て、別の歌声と出逢い、もう一度作品になる。
「糸」という曲でそうなったことを、完成してから振り返ると、少し面白い巡り合わせだったのかもしれません。
声とピアノで、ひとつの物語を。
二音一幕